ですが調所の人生は、壮絶な最期で幕を閉じました。
調所広郷の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。
この記事では、調所の最期を紹介します。
調所広郷の最期
阿部正弘の危機感
阿部が老中に就任した天保14年(1843年)の頃、海外勢力が琉球と清に進出しはじめていました。
- 天保13年(1842年) / アヘン戦争で清がイギリスに敗れ、香港が分譲される
- 天保14年(1843年) / イギリス測量艦の船員が、琉球の宮古・八重山で測量を強行
- 弘化元年(1844年) / フランスが琉球に開国を要求
- 弘化元年(1844年) / アメリカと清が望厦条約を結ぶ(不平等条約)
- 弘化元年(1844年) / フランスと清が黄埔条約を結ぶ(不平等条約)
- 弘化2年(1845年) / フランスが琉球に開国を要求
- 弘化3年(1846年) / イギリスが琉球に開国を要求
- 弘化3年(1846年) / フランスが琉球に開国を要求
海外勢力に対抗するため、斉彬は以下の3つが急務と考えていました。
- 鉄製砲の鋳造
- 洋式軍艦の建造
- 蒸気機関の製造
しかし、藩の財政を再建させた調所にとって、莫大な支出を伴う計画は到底受け入れられませんでした。
また斉興も調所の考えに賛同し、藩主の座に居座り続けました。
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抜け荷の情報
当時の薩摩藩は、琉球を介した清との貿易を、幕府の許可を得て行っていました。
しかし貿易品目など、様々な制約がありました。
そこで調所は、違法な抜け荷(密貿易)を拡大。
藩の財政再建後もこれを続け、莫大な利益を上げていました。
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詰問
嘉永元年(1848年)12月、阿部は抜け荷について調所に詰問。
調所が抜け荷を認めれば、斉興の責任は免れず、斉彬の藩主就任が見えてきます。
服毒自殺
享年73才でした。
斉興に責任が及ばぬよう、調所は自ら命を絶ちます。
これにより、阿部の計画は失敗。
責任追及を免れた斉興は、藩主の座に留り続けました。
調所広郷の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市池之上町24 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で15分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 今和泉島津家本邸跡前から徒歩10分 |
調所広郷の墓の地図
調所広郷の墓の総評
死後は悪評が高く、長い間、鹿児島で忘れられていました。
現在の墓は、平成13年(2001年)に、御子孫の調所一郎・謙一氏によって建立されたものです。
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