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島津斉彬公御陣屋跡

島津斉彬公御陣屋跡

島津斉彬公御陣屋跡

 

ここは、どういう場所だったの?

 

幕末に調練場が置かれ、洋式砲術の訓練が行わました。

 

 

島津斉彬公御陣屋跡は、鹿児島市の下荒田2丁目にあります。

 

この記事では、安政5年(1858年)に、斉彬が大演習を行った経緯を紹介します。

 

 

島津斉彬が大演習を行った経緯

堀田正睦の上京

 

安政5年(1858年)当時、アメリカと通商条約を結ぶか否か、幕府内部で意見が割れていました。

こうしたなか、老中首座の堀田正睦は、通商条約締結の勅許を得るため、同年2月に京に赴きます。

 

堀田は、締結賛成派だったんだね。

 

 

堀田の行動には、締結反対派を抑える意味もありました。

 

しかし同年3月、朝廷は条約締結を認めない勅許を出しました。

 

 

日米修好通商条約締結と不時登城

 

しかし同年4月23日、締結賛成派の井伊直弼>が大老に就任すると、同年6月19日、朝廷の勅許を待たずに日米修好通商条約を締結。

もっとも、締結は岩瀬忠震や井上清直など、現場の人間で判断されたものでありました。

 

あわわ......!

朝廷に無断で締結して、大丈夫?

 

 

この条約締結に対し、徳川斉昭や一橋慶喜、徳川慶篤などが、直弼の責任を追及します。

 

しかし直弼は、不時登城(無断登城)の罪で彼らに隠居・謹慎の処分を下しました。

 

 

率兵上京を計画

 

後日、孝明天皇は無断締結と斉昭たちの処分を聞いて激怒。

ついに攘夷を宣言します。

こうして、朝幕関係は急速に悪化していきました。

 

そりゃそうなるよね......。

 

 

当時の薩摩藩主だった斉彬は、朝幕間の関係悪化により、日本が内乱状態に陥ることを憂慮していました。

 

そこで、抑止力として自ら率兵上京し、御所を守護する計画を立てます。

 

 

大演習

島津斉彬公御陣屋跡

島津斉彬公御陣屋跡

 

安政5年(1858年)7月8日、その率兵上京に備えた大演習を、ここ天保山の陣屋で行いました。

炎天下のもと、城下の諸隊が参加し、軍事調練・大砲試射などに臨み、斉彬は騎馬で走り回りました。

 

熱中症になりそう......!

 

 

演習終了後、斉彬は釣りを楽しみ、鶴丸城に戻ります。

 

しかし翌7月9日、激しい腹痛に襲われ、高熱や下痢、ついには食欲不振を併発。

 

斉彬の体調は、急速に悪化していきました。

 

 

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島津斉彬公御陣屋跡のアクセス・駐車場・料金

営業時間 自由
場所 鹿児島市下荒田2丁目32
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 鹿児島空港から車で40分
鹿児島中央駅から車で10分
天保山バス停から下車すぐ

 

 

島津斉彬公御陣屋跡の地図

→ Googleマップの大きな地図で見る

 

 

島津斉彬公御陣屋跡の総評

 

斉彬は、結局どうなっちゃったの?

 

残念ながら体力が回復せず、率兵上京を果たせないまま、同年7月16日に亡くなりました。

 

 

死後、斉彬の遺骸は福昌寺に、遺髪は南林寺に納められました。

 

最新の研究では、演習後に釣ったサバの刺身による食中毒が死因と言われています。

 

 

 

 

この記事の参考文献はこちら

 

 

 

 

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