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西郷隆盛誕生地

投稿日:2018年1月2日 更新日:

読了予測:11分

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛誕生地

西郷隆盛が生まれた場所に、行ってみたいなー。

 

鹿児島中央駅近くにあるので、簡単に行けますよ。

 

西郷隆盛誕生地は、鹿児島市加治屋町にあります。

 

この記事では、誕生地の概要や逸話を紹介します。

 

 

西郷隆盛誕生地の概要

出入口

出入口

出入口

ここが、西郷隆盛誕生地の出入口です。

 

わくわく。

 

出入口は、2ヶ所あります。

 

入場無料で、出入りも自由です。

 

石碑

石碑

石碑

立派な石碑ーっ!

 

この石碑は、明治22年(1889年)3月20日に建てられました。

 

近所の大久保利通生い立ちの地にも、まったく同じ大きさの石碑が建てられています。

 

 

西郷従道誕生之碑

西郷従道誕生之碑

西郷従道誕生之碑

ん?

よく見ると、石碑の隣に、もう1つ小さな石碑がある!

 

海軍大臣を務めた弟・従道も、この地で生まれました。

 

天保14年(1843年)5月4日、西郷従道は、西郷家の三男として、兄・隆盛と同じく加治屋町で生まれました。

 

明治10年(1877年)の西南戦争では、立場上、敵味方に分かれました。

 

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石板

石板

石板

西郷隆盛誕生地の石板の裏

石板の裏

隣にある石板は、なーに?

 

これは、誕生地が整備された経緯を刻んだ石板です。

石碑と同じく、明治22年(1889年)3月20日に建てられました。

 

石板の裏には、誕生地整備の発起人だった弟の従道や、陸軍大将・大山巌の名前が刻まれています。

 

こちらも石碑同様、同じ大きさの石版が、大久保利通生い立ちの地に建っています。

 

 

西郷従道邸庭園跡庭石

西郷従道邸庭園跡庭石

西郷従道邸庭園跡庭石

石板裏の大きな石は、なーに?

 

これは、東京目黒の西郷従道邸にあった庭石です。

平成12年(2000年)12月、目黒区から鹿児島市に寄贈されました。

 

明治7年(1874年)、従道は東京目黒に別邸を購入します。

 

明治6年(1873年)の征韓論に敗れて下野した隆盛が再び出仕すれば、一緒に住むつもりでした。

 

しかし、ついぞ叶うことはありませんでした。

 

 

蓬莱竹の生垣

蓬莱竹の生垣

蓬莱竹の生垣

よく見ると、西郷隆盛誕生地って、小さな竹に囲まれているね。

 

第2次世界大戦まで、加治屋町には蓬莱竹の生垣で囲まれた武家屋敷が、沢山残っていました。

 

西郷隆盛の生家にも、かつて蓬莱竹の生垣があったと思われます。

 

西郷隆盛誕生地の逸話

幼少時代

造士館跡

造士館跡

文政10年(1827年)12月7日、西郷隆盛は、吉兵衛と満佐の長男として、この地に生まれました。

体が少し弱かったため、満佐は鰹節を煮出して、絶えず与えていました。

 

体が弱かったとは、意外!

 

その後は大きく育ち、藩校の造士館に通いながら勉学に励み、郷中教育で野太刀自顕流(薬丸自顕流)を学びました。

 

 

右腕の負傷

南洲墓地

南洲墓地

しかし、天保10年(1839年)の13歳の時、雨の降る造士館からの帰り道で、西郷に恨みを持つ上方限の長稚児・横堀三助に右腕を斬られ、神経を負傷します。

 

痛かったでしょうね......。

 

帰りが遅いのを心配して夕闇に立っていた満佐の姿を見て、西郷は泣きました。

 

明治10年(1877年)の西南戦争が終わった後の検死で、この右腕の傷が、首のない遺体が西郷であるという証拠の1つになりました。

 

 

貧しい生活

西郷南洲野屋敷跡

西郷南洲野屋敷跡

西郷家には最大で11人の家族がいました。

しかし、吉兵衛の年俸は47石(約282万円)しかなく、生活は貧しいものでした。

 

大変だあ......。

 

西郷家の家格は、城下士として下から2番目の御小姓与(ごしょうよ)

 

食事は薩摩芋か麦飯で、冬の夜は1枚の掛布団を引っ張り合い、寒さをしのぎました。

 

西郷は、竹傘の骨削りの内職や、畑の開墾で家計を助けました。

 

 

二才頭就任

大山巌誕生地

大山巌誕生地

弘化2年(1845年)、西郷は19才で下加治屋町の二才頭となります。

そして、同じ下加治屋町に住んでいた大山巌などの稚児達に、習字や読書などを生家で教えました。

 

先輩が後輩に勉学を教える、郷中教育のことだね。

 

血染めの肌着

お由羅屋敷

お由羅屋敷

しかし、嘉永3年(1850年)3月4日、24才の時に、お由羅騒動で島津氏の分家・赤山靱負が自刃します。

赤山から目を掛けられていた西郷は、介錯人の吉兵衛から受け取った血染めの肌着を抱き、夜通し泣き明かしました。

 

ツライ......。

 

のちに側に仕えた島津斉彬が病気になった際、お由羅の呪詛を信じた西郷は、暗殺計画まで立てました。

 

大久保利通を招く

大久保利通生い立ちの地

大久保利通生い立ちの地

また、親友の大久保利通も記録所書役助を免職となり、父の次右衛門は喜界島に流されました。

しかし、西郷は大久保をよく家に招き、食事を与えました。

 

優しいな~。

 

そして2年後、人生の大きな転機がやってきます。

 

 

結婚と死別

西郷家の墓

西郷家の墓

嘉永5年(1852年)の24才の時、親同士が決めて伊集院スガと結婚します。

しかし同年、

  1. 祖父・龍右衛門
  2. 父・吉兵衛
  3. 母・満佐

の3人を、相次いで亡くしました。

 

Oh......。

 

また、

 

  • 薬代
  • 葬式代
  • 墓代

 

も重なったため、ますます家計は苦しくなりました。

 

 

出府

水上坂

水上坂

安政元年(1854年)1月21日、28才の西郷は、薩摩藩主・島津斉彬の参勤交代にお供し、鹿児島を発ちます。

出府後の西郷家は、次男の吉二郎と、嫁に出ていた長女の琴が支えました。

 

嫁に行った琴が支えたほどだから、暮らしは楽ではなかっただろうね~。

 

 

離婚

だけど、残された奥さんが可愛そう......。

 

この時スガは、西郷の祖母に加えて、弟妹5人と同居していました。

 

生活は苦しく、夫もおらず、6人の面倒を見なければならなかったスガの窮状を見かね、父親の伊集院兼善が実家に呼び戻します。

 

江戸の西郷は伊集院家と話し合いを重ね、安政元年(1854年)11月、正式に離婚しました。

 

 

生家売却

西郷南洲翁宅地跡

西郷南洲翁宅地跡

そして安政2年(1855年)12月、借金返済のため、下加治屋町の生家を鎌田源次郎へ売り渡します。

 

生家から少し離れた上之園町の借家が、西郷家の新たな棲家となりました。

 

 

西郷隆盛誕生地の基本情報

【時】 自由
【所】 鹿児島市加治屋町5
【料】 無料
【駐】 なし
【交】 鹿児島中央駅から車で5分
鹿児島中央駅から徒歩10分
まち巡りバス 維新ふるさと館前から徒歩1分
カゴシマシティビュー 維新ふるさと館前から徒歩3分

 

西郷隆盛誕生地の地図

Googleマップの大きな地図で見る

 

西郷隆盛誕生地の総評

予備知識無しで行けば、滞在時間は10分未満で済みます。

ここを訪れた時、そういえばこんな話があったなと、スマホを開いて読んでくださいまし。

 

事前に勉強していれば、訪れた時に感慨に浸れますよ。

 

また、周辺には

 

 

などの観光スポットがあります。

 

こちらにも、是非どうぞ。

 

 


 

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