島津斉興の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。
この記事では、斉興の人生を簡単に紹介します。
島津斉興の人生
誕生
近思録崩れ
斉興の祖父である25代・島津重豪の開化政策で悪化した、藩財政の立て直しを図ります。
その頃の藩の負債額は、約126万両でした。
横山・秩父の2人は、緊縮政策などの藩政改革を行いました。
しかし、重豪の開化政策否定に繋がり、当人の逆鱗に触れます。
100名以上が罰せられ、横山・秩父は切腹、斉宣は強制隠居となりました。
藩主就任
後見役は、祖父・重豪でした。
財政再建
そこで祖父・重豪は、琉球口貿易で着実に利益を出した調所広郷を、財政改革主任に抜擢します。
調所広郷の財政改革は軌道に乗り、重豪死後も斉興は続行させます。
弘化元年(1844年)には、50万両が蓄えられるほど好転しました。
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藩主に留まる
そこで、海外事情に明るい長男・斉彬の藩主就任を願う声が、藩内のみならず幕閣からも上がるようになります。
長男の斉彬は、祖父・重豪の薫陶を受けて育ちました。
そのため、斉興は再度の財政悪化を懸念し、藩主に留まり続けます。
事実、斉彬の建てた海防計画は、多額の出費を伴うものでした。
お由羅騒動
そんな中、斉彬の子が次々と夭折。
斉興の側室で久光の母であるお由羅が呪詛したと、噂が立ちました。
斉彬支持者達は、お由羅暗殺計画まで立てますが、これを藩庁が察知。
累は遠くまで及び、西郷隆盛の兄貴分だった赤山靱負は切腹。
大久保利通の父・次右衛門は、遠島となりました。
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隠居
しかし、切腹・遠島・謹慎処分により、斉彬支持派は壊滅状態に陥ります。
そんな中、斉彬の藩主就任を願っていた幕府の老中・阿部正弘が、一計を案じました。
嘉永3年(1850年)、斉興は将軍・徳川家慶から茶入を与えられます。
これは、
「隠居して茶でも楽しめ」
という意味です。
斉興は抗えず、ついに隠居しました。
死去
孫の島津忠義が藩主に就くも、再び実権を握った斉興は、斉彬が興した集成館事業を大幅に縮小させました。
翌年の安政6年(1859年)、斉興は死去します。
享年69。
藩主就任を願った子の久光は、後に薩摩藩の実権を握りました。
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島津斉興の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市池之上町24 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で15分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 今和泉島津家本邸跡前から徒歩10分 |
島津斉興の墓の地図
島津斉興の墓の総評
しかし、斉彬の興した集成館事業は、斉興と調所の財政再建と備蓄金のおかげで実現したんですよ。
チェック
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