島津斉彬公御陣屋跡は、鹿児島市の下荒田2丁目にあります。
この記事では、安政5年(1858年)に、斉彬が大演習を行った経緯を紹介します。
島津斉彬が大演習を行った経緯
堀田正睦の上京
こうしたなか、老中首座の堀田正睦は、通商条約締結の勅許を得るため、同年2月に京に赴きます。
堀田の行動には、締結反対派を抑える意味もありました。
しかし同年3月、朝廷は条約締結を認めない勅許を出しました。
日米修好通商条約締結と不時登城
もっとも、締結は岩瀬忠震や井上清直など、現場の人間で判断されたものでありました。
朝廷に無断で締結して、大丈夫?
この条約締結に対し、徳川斉昭や一橋慶喜、徳川慶篤などが、直弼の責任を追及します。
しかし直弼は、不時登城(無断登城)の罪で彼らに隠居・謹慎の処分を下しました。
率兵上京を計画
ついに攘夷を宣言します。
こうして、朝幕関係は急速に悪化していきました。
当時の薩摩藩主だった斉彬は、朝幕間の関係悪化により、日本が内乱状態に陥ることを憂慮していました。
そこで、抑止力として自ら率兵上京し、御所を守護する計画を立てます。
大演習
炎天下のもと、城下の諸隊が参加し、軍事調練・大砲試射などに臨み、斉彬は騎馬で走り回りました。
演習終了後、斉彬は釣りを楽しみ、鶴丸城に戻ります。
しかし翌7月9日、激しい腹痛に襲われ、高熱や下痢、ついには食欲不振を併発。
斉彬の体調は、急速に悪化していきました。
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島津斉彬公御陣屋跡のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市下荒田2丁目32 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
天保山バス停から下車すぐ |
島津斉彬公御陣屋跡の地図
島津斉彬公御陣屋跡の総評
死後、斉彬の遺骸は福昌寺に、遺髪は南林寺に納められました。
最新の研究では、演習後に釣ったサバの刺身による食中毒が死因と言われています。
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