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島津斉彬の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。
この記事では、島津斉彬の墓の概要や、斉彬の最期を紹介します。
島津斉彬の墓の概要
位置
案内板は、福昌寺跡の正門にあります。
最初にスマートフォンで撮影すると、画面で確認しながら斉彬の墓に行けますよ。
一基目
左手にあるのは、正室・英姫の墓です。
二基目
それが、まったくの謎です。
案内板に〈28代島津斉彬〉と書かれているので、本人の墓であることは間違いありません。
石材
その名のとおり山川石は、指宿市山川地区で採れます。
柔らかく、加工しやすいのが特徴です。
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島津斉彬の最期
大演習
当時、開国方針を巡って、朝廷と幕府の関係は、急速に悪化していました。
同時期、斉彬は率兵上京を計画しており、一説には幕府と対立する朝廷を守るためと考えられています。
炎天下の大演習は、これに急ぎ備えるためでした。
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死去と遺言
高熱と下痢で食事も喉を通らず、7月16日に鶴丸城で急死。
熱中症とも、食中毒とも言われています。
遺言により、異母弟・島津久光の長男である島津忠義が、藩主に就任。
遺言により、斉彬の遺骨は福昌寺に、遺髪は南林寺に納められました。
島津斉彬の墓のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市池之上町24 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 駐車スペースあり |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で15分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩10分 |
|
カゴシマシティビュー 今和泉島津家本邸跡前から徒歩10分 |
島津斉彬の墓の地図
島津斉彬の墓の総評
元治元年(1864年)、流島先の沖永良部島から戻った時も、西郷は斉彬の墓を訪れました。
この時、ひどく衰弱していたため足が立ちませんでしたが、それでも這いずって墓参りをしたんですよ。
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