ちなみに群像の中には、一緒に渡英した経済・外交使節も含まれます。
若き薩摩の群像は、鹿児島市中央町にあります。
この記事では群像の概要を、上から順に紹介します。
若き薩摩の群像の概要
新納久脩銅像
留学生派遣事業の総責任者でした。
紡績機械の買い付け契約を行い、薩摩藩のパリ万博参加を決めました。
両手を挙げてるから、分かりやすいね。
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町田久成銅像
明治時代、東京帝室博物館(東京国立博物館)の初代館長に就任しました。
鮫島尚伸銅像
ステッキを持って腰に手を当てているのは、鮫島尚伸。
ヨーロッパ各国の外交官や、大使を務めました。
町田申四郎銅像
帰国後、薩摩藩家老・小松帯刀の養子となりました。
しかし小松家家督は、帯刀と京都妻・お琴との間に生まれた清直が継承。
その後の申四郎は、町田家に戻ったと考えられます。
吉田清成銅像
吉田はイギリスだけでなく、アメリカにも留学。
明治時代、駐米全権公使を務めました。
中村博愛銅像
留学先をイギリスからフランスに変更し、幕府の対フランス政策を調査。
維新後は、ヨーロッパ各国で領事・公使を務めました。
寺島宗則銅像
椅子に座ってハットを持っているのは、外交使節の寺島宗則(松木弘安)。
王政復古への協力を、イギリスに要請しました。
明治時代には、外務卿に就任。
不平等条約の改正に尽力しました。
五代友厚銅像
新納久脩と紡績機械の買い付けと、薩摩藩のパリ万博参加を決めました。
明治初期には、実業界に転身。
大阪商法会議所(大阪商工会議所)を設立しました。
なお、五代友厚の銅像は、鹿児島市泉町にもあります。
製作者は別ですが、そちらもオススメです。
松村淳蔵銅像
イギリスから渡米し、海軍兵学校に入学。
帰国後は日本海軍に入り、海軍兵学校長や海軍中佐を務めました。
東郷愛之進銅像
両腕を組んでいるのは、東郷愛之進。
正確な出生地も、年齢も不明です。
帰国後は戊辰戦争に出征し、戦死。
南林寺由緒墓に、お墓があります。
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名越時成銅像
ロンドン大学で勉学に励みました。
帰国後の消息は、不明です。
長澤鼎銅像
渡英時は、13才。
その後はアメリカに渡り、ワイン事業で成功しました。
朝倉盛明銅像
中村博愛と同じく、留学先をイギリスからフランスに変更し、幕府の対フランス政策を調査。
帰国後、兵庫県生野銀山の再開発に取り組みました。
畠山義成銅像
攘夷思想が強く、当初は留学命令を拒否。
のちにキリスト教に改宗し、東京開成学校(東京大学)の初代校長に就任しました。
森有礼銅像
第一次伊藤内閣で、初代文部大臣に就任。
しかし明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布の日に刺殺されました。
町田清蔵銅像
町田久成、町田申四郎の末弟です。
留学先をイギリスからフランスに転じました。
帰国後は財部家の養子となり、当時の様子を語った〈財部実行回顧談〉を残しました。
村橋久成銅像
開拓使麦酒醸造所(サッポロビール)を設立するも、開拓使を辞して雲水に。
以後、消息不明となります。
明治25年(1892年)、神戸の道端で倒れている所を発見され、数日後に亡くなりました。
若き薩摩の群像のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市中央町37 |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で0分 | |
鹿児島中央駅から徒歩1分 | |
まち巡りバス 鹿児島中央駅から徒歩1分 |
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カゴシマシティビュー 鹿児島中央駅から徒歩1分 |
若き薩摩の群像の地図
若き薩摩の群像の総評
この記事をタブレットやスマホで読みながら、確かめて下さい。
ちなみに、留学生の高見弥一と通訳の堀孝之は、薩摩藩士でないとの理由で、銅像が建てられませんでした。
しかし両名は密航前、御小姓与として薩摩藩に召し抱えられていたことが、後年分かりました。
この事実を踏まえ、両名の銅像も設置されるのが望ましいでしょうね。
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