いつ、誰が整備したの?
その後、西郷軍生き残りの河野主一郎が、遺骨収集と墓地整備に尽力。
明治16年(1883年)に、現在の形になりました。
南洲墓地は、鹿児島市上竜尾町にあります。
この記事では、墓地の概要を紹介します。
南洲墓地の概要
出入口
1つは、墓地に隣接する高台の駐車場。
もう1つは、下から昇る階段です。
まち巡りバスでお越しの場合、南洲公園入口で下車後、階段を昇る必要があります。
カゴシマシティビューの停留所は、高台の駐車場にあり、階段を昇る必要がありません。
関連サイトをチェック
鳥居
西郷ら諸将の遺体は、この付近に並べられて検死されました。
城山の麓で介錯された西郷の首も、この地に届けられました。
首のない胴体の右腕には、幼少期に受けた刀傷がありました。
これにより、この地で西郷の死が正式に確認されました。
関連記事
岩村県令記念碑
冒頭で触れた通り、岩村は参軍・山県有朋と川村純義に許可を取り、西郷軍の遺体を仮埋葬しました。
当時、西郷軍は賊軍扱いでした。
しかし、岩村は県民感情を重要視して仮埋葬を決めます。
その後、英断を下した岩村に対する感謝の印として、記念碑が建立されました。
庄内柿
山形県鶴岡市より寄贈されました。
明治元年(1868年)の戊辰戦争で、西郷は降伏した庄内藩に寛大な処分を下しました。
これにより、 庄内藩家老・菅実秀と西郷の交流が開始。
2人の縁が基で、昭和44年(1969年)11月7日に、鹿児島市と鶴岡市は兄弟都市になります。
この締結日に、庄内柿が贈られました。
西郷隆盛の墓
まずは言わずと知れた、西郷の墓。
西郷軍の首領でした。
墓石は、鹿児島市小野で採れた藤山石。
沖永良部流島時代からの盟友、川口雪篷が墓標を書きました。
2つの石灯籠には、それぞれ、〈遺愛不窮〉〈其人如玉〉と彫られています。
桐野利秋の墓
戦争最終日、右額を打ち抜かれて戦死。
墓石は白御影石で、派手好きだった夫のために、妻の久が岡山から取り寄せました。
篠原国幹の墓
3月4日、熊本の吉次峠の戦いで狙撃されて戦死。
熊本城攻略に苦戦中だった西郷軍にとって、大きな痛手となりました。
村田新八の墓
戦時中の会議前、西郷は新八がいるか必ず確認するほど信頼していました。
西郷の介錯を見届けた後、戦死したとも自刃したとも言われています。
なお、草牟田墓地にある村田家の墓にも新八の名が刻まれています。
永山弥一郎の墓
4月13日に政府軍に囲まれたため、周辺の宿の主人から家を買い取り、火を点けて自刃しました。
関連記事
桂久武の墓
西郷からの従軍依頼を断るも、出陣する西郷軍を見て翻意。
武器や兵糧の手配を担い、弓矢で戦うも、戦争最終日に被弾して亡くなりました。
関連記事
別府晋介の墓
その後、弾雨のなか撃たれたとも、切腹したとも伝えられています。
辺見十郎太の墓
三番大隊の一番小隊長を務め、西郷の死を見届けたあと、松の木に拠って切腹しました。
関連記事
西郷小兵衛の墓
遺言は、
「兄に、先に逝ってすまぬと伝えてくれ」
でした。
弟2人に先立たれて、辛かっただろうな~。
関連記事
市来宗介・宗五郎の墓
宗五郎は、熊本の山鹿で戦死。
宗助は戦争最終日に捕縛され、当日に斬首されました。
関連記事
大山辰之助の墓
叔父・大山巌の軍と戦い、鹿児島の甲突川で戦死しました。
村田岩熊の墓
しかし、父の命令で前線に赴きます。
そして、熊本の植木で戦死しました
大山綱良の墓
大山は、戦争勃発時の鹿児島県令でした。
- 軍資金
- 兵器
- 弾薬
- 食料
などを、西郷軍に援助。
その罪により、長崎で斬首されました。
関連記事
南洲墓地のアクセス・駐車場・料金
営業時間 | 自由 |
場所 | 鹿児島市上竜尾町2-1 |
料金 | 無料 |
駐車場 | 無料 |
アクセス | 鹿児島空港から車で40分 |
鹿児島中央駅から車で10分 | |
まち巡りバス 南洲公園入口から徒歩5分 |
|
カゴシマシティビュー 西郷南洲顕彰館前から下車すぐ |
南洲墓地の地図
南洲墓地の総評
今回は、最小限チェックすべき人物の墓に留めました。
不思議~。
ちなみに、隣の西郷南洲顕彰館で墓石の位置を記した一覧表が、1枚200円で販売されています。
被葬者のお墓が何処にあるのか、すぐに分かりますよ。
関連記事
チェック